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斎藤緑雨(さいとうりょくう)

作家評論家[日本]

1904年 4月13日 死去肺結核享年36歳

斎藤緑雨 - ウィキペディアより引用

斎藤 緑雨(さいとう りょくう 齋藤緑雨、1868年1月24日(慶応3年12月30日) - 1904年(明治37年)4月13日)は、明治時代の小説家、評論家。
本名・賢(まさる)。
「正直正太夫」をはじめ、「江東みどり」「登仙坊」など別名も多数ある。
幸田露伴がつけたという戒名は「春暁院緑雨醒客」。
生涯= 1868年1月24日(慶応3年12月30日)、伊勢国神戸(現在の三重県鈴鹿市神戸(かんべ))で津藩の医師・斎藤利光の子として生まれ、10歳で上京。
父が藤堂候の侍医だったことから、本所緑町(現在の東京都墨田区緑)の藤堂邸内に居住していた。
緑雨の号は緑町に住んだことに由来する。
東京府中学、明治義塾を経て、明治法律学校(現在の明治大学)に進学するが、弟たちのために中途で学業を廃し、文筆で立つことを決意する。
1884年(明治17年)より仮名垣魯文に師事し、〈江東みどり〉の筆名でいくつかの小説を書く。
その後、1889年(明治22年)から1890年(明治23年)に『小説八宗』、『初学小説心得』、『小説評注問答』などのパロディ精神にあふれた評論を書き、辛辣な批評家として自他ともに許す。
1891年(明治24年)に『油地獄』、『かくれんぼ』などの作品で小説家としても認められるが、生活は苦しかった。
萬朝報・読売新聞・二六新報などの新聞で「眼前口頭」をはじめとするアフォリズムを連載する。
萬朝報記者だった幸徳秋水と親交。
1895年(明治28年)9月から時論日報という ……

斎藤緑雨が亡くなってから、120年と222日が経過しました。(44052日)