小山田茂誠(おやまだしげまさ)
戦国武将[日本]
(寛永14年8月3日歿)
1637年 9月21日 死去
小山田 茂誠(おやまだ しげまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。
武田氏麾下の国衆小山田氏。
後北条氏、真田氏の家臣。
幕末の文久年間に成立したとされる小山田了三家伝「郡内小山田家長老大長老の事」によれば、郡内領主小山田氏の一門には複数の分家が存在し、茂誠はこのうち記録から確認される、代々仮名「平三」、官途名「弾正」を称した小山田弾正家の出自であるという。
生涯=
「長国寺殿御事蹟稿」によれば、茂誠は天正10年(1582年)の高遠城落城の際に21歳もしくは22歳であるとされ、生年は永禄4年もしくは永禄5年に推定されている。
父・小山田有誠は小山田氏当主・信有(弥三郎)・信茂期に一門として活動し、天正10年(1582年)3月に織田信長・徳川家康連合軍の武田征伐で甲斐武田氏・小山田氏が共に滅亡すると、後北条氏に従う。
有誠のその後の動向は不明である。
「松代小山田家文書」には天正3年(1575年)12月に「小山田平三」が「茂」字の偏諱を受けた一字書出が存在し、茂誠が小山田氏の当主・信茂から偏諱を受けたものと考えられている。
有誠・茂誠は小山田弾正家の出自と考えられているが、茂誠は同じ武田家臣で郡内小山田氏とは別系統の石田小山田氏・小山田昌成の子孫を自称している。
茂誠は武田氏滅亡後、父と同じく相模国の後北条氏に仕え、天正18年(1590年)2月から7月の小田原合戦後に武田遺臣の真田昌幸に仕えたと考えられてい ……
小山田茂誠が亡くなってから、387年と71日が経過しました。(141423日)