月田一郎(つきたいちろう)
俳優[日本]
1945年 9月27日 死去享年37歳
月田 一郎(つきた いちろう、1909年10月11日 - 1945年9月27日)は、日本の俳優である。
本名は築田 智二郎(つきた ともじろう)だが、本名同じとの説や月田 一郎(つきだ いちろう)説などもある。
戦前に松竹蒲田撮影所、新興キネマ、東宝などで多数の作品に出演したバイプレーヤーである。
身長は5尺4寸(約163.6センチメートル)、体重は14貫200匁(約53.3キログラム)。
来歴・人物=
1909年(明治42年)10月11日、山口県岩国町(現在の同県岩国市)に生まれる。
幼児期に東京府東京市(現在の東京都)へ移り、早稲田小学校(現在の新宿区立早稲田小学校)、東京中学校(現在の東京高等学校)を卒業して、法政大学に進学する。
生家は銀座で婦人帽子店を経営していたといわれている。
在学中に映画俳優を志し、俳優・鈴木傳明(1900年 - 1985年)に師事。
1929年(昭和4年)、大学を中退して松竹蒲田撮影所に入社。
同年、牛原虚彦監督映画『山の凱歌』で映画デビュー。
1930年(昭和5年)、小津安二郎監督映画『落第はしたけれど』で大学生役に抜擢され、斎藤達雄、横尾泥海男らと共演し、これがきっかけで二枚目ぶりを買われ、その後も鈴木主演映画を中心に多く出演する。
1931年(昭和6年)、同じく二枚目スターとして将来を期待されていた毛利輝夫が、愛人の大町弘子と鉄道心中した後は「31年型美男子」と宣伝されて売り出し、池田義信監督映画『街のルンペン』など準主役から主役クラ ……
月田一郎が亡くなってから、79年と55日が経過しました。(28910日)