難波大助(なんばだいすけ)
共産主義者、テロリスト[日本]
(摂政時代の昭和天皇を狙撃)
1924年 11月15日 死去死刑享年26歳
難波 大助(なんば だいすけ、1899年〈明治32年〉11月7日 - 1924年〈大正13年〉11月15日)は、日本の共産主義者、極左テロリスト。
大正期の反逆的な社会運動家。
1923年(大正12年)12月の虎ノ門事件で摂政宮(皇太子裕仁親王)を襲撃し、暗殺しようとした。
審理が行われた大審院でも皇室否定の主張を曲げず、大逆罪により死刑に処された。
生涯=
思想背景=
1899年(明治32年)、山口県熊毛郡周防村立野宮河内(現・山口県光市立野宮河内)の名家に生まれた。
難波家は長州藩士ではなく陪臣であり、長州藩寄組清水氏の家臣で、清水宗治の弟難波宗忠(家老)を家祖とし、戦国時代から主従関係は変わることはなかった。
難波の父・作之進は、庚申倶楽部所属の衆議院議員であった。
母は難波ロク。
徳山中学(山口県立徳山高等学校の前身)時代は、父の影響を強く受けた皇室中心主義者であり、『大阪朝日新聞』の非買運動を行うなどしていた。
中学5年生の時、田中義一陸軍大臣が山口に帰省した際、強制的にみぞれの降る辛い状況の中、沿道に整列させられ、本人は頑丈さ故に無事だったが、難波の親友が肺炎で倒れ、それに対し教師が理不尽に「無礼だ」と叱った事に憤慨し、思想的な変化が芽生えたという。
その際教師を二、三名打ち倒した。
鴻城中学でも学ぶが、中退した。
1919年(大正7年)、予備校に通うため上京し、四谷に居住することになった。
貧民窟として知られる鮫ヶ橋( ……
難波大助が亡くなってから、99年と335日が経過しました。(36495日)