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坂根田鶴子(さかねたづこ)

映画監督[日本]

1975年 9月2日 死去骨髄性白血病享年72歳

坂根 田鶴子(さかね たづこ、1904年12月7日 - 1975年9月2日)は京都出身の映画監督、映画製作者。
溝口健二の下でキャリアを積み、1936年に『初姿』を監督して、日本最初の女性映画監督となった。
生涯= 1904年(明治37年)12月7日、京都市上京区で縮緬織りの織元だった父・坂根清一と母・志げの間に6人兄弟の長女として生まれる。
母の生家佐久間家は丹後の旧家であったが、跡取りがいなかったため、田鶴子は2歳で佐久間家の当主として登録され、佐久間田鶴子となる。
しかし、田鶴子は生涯父方の苗字「坂根」を使い続けた。
夫妻の6人の子供たちのうち、長生きしたのは長男の鋭郎と長女の田鶴子の2人だけであった。
父が発明で財をなしたため家は裕福で、田鶴子は今出川幼稚園から中立売小学校、京都府立京都第一高等女学校(現在の京都府立鴨沂高等学校)へ進んだ。
「府一」と称された同校は京都の名門校であった。
卒業後は勉強を続けたい本人の希望に沿って同志社女子専門学校英文科(現在の同志社女子大学)へ進学した。
1923年、田鶴子は「家事都合」を理由に専門学校を中退、翌年3月に母志げが47歳で急死した。
すぐに大定ツルという女性が後妻として入った。
亡母の勧めていた見合い話に沿って田鶴子は高岡という産婦人科医と見合いをし、1925年に21歳で結婚した。
しかしこの結婚生活はうまくいかず、田鶴子は家を出て実家に戻った。
出戻った田鶴子に周囲の目は冷たく ……

坂根田鶴子が亡くなってから、49年と81日が経過しました。(17978日)

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