二本柳寛(にほんやなぎひろし)
俳優[日本]
1970年 1月28日 死去心不全
二本柳 寛(にほんやなぎ ひろし、1917年〈1912年説もあり〉11月20日 - 1970年1月28日)は、日本の俳優である。
本名及び旧芸名は黒井 洵(くろい じゅん)。
戦中戦後、主に敵役として活躍した二枚目俳優である。
来歴・人物=
1917年(大正6年)11月20日、北海道札幌市に生まれる。
横浜高等工業学校(1951年廃校)を卒業。
1933年(昭和8年)、劇団築地座に入団し、『三人姉妹』で初舞台を踏む。
ところが、同劇団は1936年(昭和11年)に解散し、その後は東京中央放送局(現在の日本放送協会)に入社し、そのまま終戦を迎える。
この間、本名の黒井洵名義で1942年(昭和17年)に公開された東宝映画製作の山本嘉次郎監督映画『ハワイ・マレー沖海戦』と、1943年(昭和18年)に製作された満州映画協会・東宝映画共作の島津保次郎監督映画『誓ひの合唱』『私の鶯』の3本の映画に出演しているが、1979年(昭和54年)に発行された『日本映画俳優全集 男優編』など、ほとんどの資料では戦後に映画初出演としている。
また、日本映画データベースでは黒井旬と記載されているが、誤りである。
1947年(昭和22年)、本名で松竹京都撮影所製作の高木孝一・沢田正平両監督映画『踊り子劇場』に出演し、芸能界に復帰。
1948年(昭和23年)、大映に入社。
芸名も二本柳寛と改名して、1949年(昭和24年)2月に公開された安田公義監督映画『最後に笑う男』で主演を務めた滝沢修の敵役が入社第一作となる。
また ……
二本柳寛が亡くなってから、54年と297日が経過しました。(20021日)