岩下守道 氏(いわしたもりみち)
元プロ野球選手[日本]
2015年 1月18日 死去肺炎享年85歳
岩下 守道(いわした もりみち、1931年12月9日 - 2015年1月18日)は、長野県北佐久郡北御牧村(現役当時、現・同県東御市)出身の読売ジャイアンツや国鉄スワローズなどに在籍したプロ野球選手。
来歴・人物=
小県農業高校では投手で、球速は速かったが制球に難があり、それを補うためにコーチをする者もいない中でカーブの投げ方を自分で考案したという。
1949年夏に読売ジャイアンツ(巨人)が初めて選手公募を行った際、卓球部主将の尾崎直司(のち八千代市議会議員)が岩下に内緒で申し込んだのがきっかけで入団テストを受け、応募者1,300名の中で総合得点ではトップ合格。
支度金10万円、給料15,000円の条件で入団した。
1950年夏に宇野光雄二軍監督の勧めで一塁手へ転向、さらに郷里の先輩で大洋の監督であった中島治康に野手転向の報告を行った際に勧められて、左打者になる。
1954年には二軍の新日本リーグで打点王、打率2位となり、最高殊勲選手のタイトルを獲得し、7試合ながら一軍公式戦に出場する。
1955年から1958年にかけては正一塁手・川上哲治の控えとして、主に試合後半の守備固めを中心に一塁手として毎年30~40試合に出場した。
1957年オフ、大ベテランの川上が常時出場できない場合は中堅手の与那嶺要を一塁手にコンバートさせるとのコメントに驚き、水原茂監督にトレードの直訴も行っている。
1956年から1958年の西鉄との3回の日本シリーズにもベンチ入りし、代打、代走、守備 ……
岩下守道さんが亡くなってから、9年と308日が経ちました。(3595日)