中村昌枝 氏(なかむらまさえ)
元バレーボール選手[日本]
2013年 10月3日 死去脳出血享年81歳
河西 昌枝(かさい まさえ、結婚後の姓は中村、1933年7月14日 - 2013年10月3日)は、日本の元女子バレーボール選手。
東洋の魔女 (Oriental Witches) の主将。
金メダリスト。
来歴=
山梨県中巨摩郡(現在の南アルプス市)の出身。
山梨県立巨摩高等学校卒業後、日紡に入社する。
河西は『東洋の魔女』の主将として1962年世界選手権優勝、1964年東京五輪でコーチ兼主将として優勝に大いに貢献した。
ポジションはセッターで、長身を生かして前衛ではセンタープレーヤーも務めた。
1965年1月に日紡を退社。
同年5月30日に当時の総理大臣である佐藤栄作の取り計らいで2歳年上の自衛官と結婚した。
選手のファンであった女優の淡島千景がオーナーとなって設立したバレーボールのクラブチーム「フジクラブ」にも参加、同クラブの中心選手として活躍した(フジクラブは国民体育大会バレーボール競技一般女子の部において、1965年、1966年と二連覇した。
1968年頃までには活動を終えたという)。
またその後は、ママさんバレー教室の講師も務め、普及に尽力した。
2003年3月に日本バレーボール協会の女子強化委員長に就任し、 2004年アテネ五輪では全日本女子チームの団長(チームマネージャー)を務めた。
2008年にバレーボール殿堂入りを果たした。
2013年10月3日、脳出血のため東京都内の病院で死去。
80歳没。
人物・エピソード=
1962年の世界選手権対ソ連戦で、1セット目を先取され皆が意気 ……
1964年東京五輪の女子バレーボールで金メダルを獲得し、「東洋の魔女」と呼ばれた全日本チームの主将、中村昌枝(なかむら・まさえ、旧姓河西=かさい)さんが3日午前0時30分、脳出血のため、都内の病院で死去した。80歳だった。葬儀は近親者のみで行う。 山梨県南湖村(現南アルプス市)出身。中学でバレーを始め、山梨・巨摩高から52年、日紡足利工場に就職。ニチボー貝塚バレー部創設に伴って異動し、大松博文監督の猛練習に耐えて選手たちをまとめた。 6人制移行後の62年世界選手権(モスクワ)で優勝。東京五輪ではコーチ兼主将として出場し、決勝でソ連を破って金メダルを獲得した。 65年の引退後はママさんバレーなどの指導普及に尽力。2004年アテネ五輪の際は、日本協会の女子強化委員長に就き、08年世界バレー殿堂入り。
中村昌枝さんが亡くなってから、11年と49日が経ちました。(4067日)