前田利昌(まえだとしまさ)
大聖寺新田藩主[日本]
(宝永6年2月18日没、寛永寺で大和国柳本藩主・織田秀親を刺殺し、切腹仰せつかる。)
1709年 3月28日 死去切腹享年26歳
前田 利昌(まえだ としまさ)は、江戸時代中期の大名。大聖寺新田藩主。大聖寺藩の第2代藩主・前田利明の四男。宝永6年(1709年)1月15日、東叡山寛永寺で行われた5代将軍徳川綱吉の葬儀に際し、中宮使饗応役を命じられる。同役の大准后使饗応役は以前から仲が悪かった大和国柳本藩主の織田秀親であった。2月15日、翌日の将軍徳川家宣の参詣の行事について書かれた老中の奉書が届けられた際、饗応役はそれを回覧することになっていたが、秀親は利昌に見せようとしなかった。その場で利昌は一時小刀に手をかけるも、赤穂事件のことを考えて一旦踏みとどまった。翌2月16日、利昌は寛永寺吉祥院の宿坊で秀親を刺殺した。その後山城国淀藩主・石川義孝に預けられ、同月18日に切腹となった。
前田利昌が亡くなってから、316年と1日が経過しました。(115420日)