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稲葉光雄 氏(いなばみつお)

プロ野球選手、コーチ[日本]

2012年 8月11日 死去脳内出血享年63歳

稲葉 光雄(いなば みつお、1948年10月2日 - 2012年8月11日)は、静岡県清水市(現・静岡市清水区)出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。
経歴[編集] プロ入りまで[編集] 5歳の時に兄からソフトボールでボール投げをやらされたことがきっかけで野球を始める。
清水工業高校の2年生の時に投手となる。
日本軽金属へ入社し、1968年のドラフト会議にて広島東洋カープから6位で指名されるが、まだ20歳と若かったことや会社から残留を要請されたこともあり、入団を拒否した。
1970年の都市対抗には大昭和製紙の補強選手として出場し、チームの優勝に貢献。
現役時代[編集] 1970年のドラフト2位で中日ドラゴンズに入団。
1971年8月25日の巨人戦(後楽園)に延長11回裏から登板して4イニングを無失点に抑え、プロ初勝利を挙げる。
この年は6勝0敗を記録した。
1972年は開幕から3連勝したが4月25日の阪神戦でプロ初黒星を記録し、プロ入り連勝は9で止まる。
20勝11敗の好成績を記録し、特に巨人戦には6勝3敗と強く「巨人キラー」と称された。
しかし翌73年は6勝12敗、1974年には肘の故障もあって4勝と、年々成績が下降した。
1974年のロッテとの日本シリーズでは2試合に登板。
第4戦では先発として起用され、4回途中3失点で降板した。
174センチ、67キロとプロの投手としては小柄であったが切れのいい球を投げ、スピンの効いた落差の大きなカーブを武器とした。
1976年オフに、戸田善紀・森本 ……

稲葉 光雄氏(いなば・みつお=プロ野球中日2軍投手コーチ)11日午後8時39分、脳内出血のため、名古屋市の病院で死去、63歳。静岡市出身。葬儀の日取り、喪主は未定。 球団によると、11日にナゴヤ球場でデーゲームで行われたウエスタン・リーグ広島戦の試合中に体調不良を訴え、病院に搬送された。 静岡・清水工高(現科学技術高)から日本軽金属を経て71年に中日入りし、77年から阪急(現オリックス)に移籍。阪神に移った84年に引退。通算成績は104勝80敗2セーブ、防御率3.44。日本ハムでもコーチを務めた。

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稲葉光雄さんが亡くなってから、11年と350日が経ちました。(4368日)