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逸然性融(いつねんしょうゆう)

渡来[明]

(寛文8年7月14日示寂)

1668年 8月21日 死去享年68歳

逸然性融 - ウィキペディアより引用

逸然性融(いつねん しょうゆう、1601年8月28日(万暦29年8月1日)- 1668年8月21日(寛文8年7月14日))は、中国明末に日本に渡来した僧である。
俗姓は李氏。
逸然は字、性融は法諱である。
浪雲庵王・煙霞比丘・煙霞道人と号する。
隠元隆琦を日本に招聘し黄檗宗の発展に尽くした。
また画僧としても知られ羅漢図・神仙図などの仏画・人物図を得意とした。
北宗画風の新様式を伝え長崎漢画の祖(唐絵の祖)とされる。
門弟に河村若芝や渡辺秀石らがいる。
生涯= 白衣観音観瀑図 即非賛 1665年 長崎歴史文化博物館 1601年(万暦29年)、浙江省杭州府銭塘県に生まれる。
1641年(寛永18年)明末反乱期の動乱を避けて41才の時に商人として貿易のために長崎へ来舶した。
1644年(正保元年)、長崎・興福寺の第2代住持黙子如定の許で帰依し仏門に入る。
1645年(正保2年)には、黙子が隠退し、第3代住持の座を継承した。
1641年(寛永18年)、黙子如定が住持の隠居所とするため幻寄山房東盧庵を建てる。
1652年(承応元年)、無心性覚の懇願により、隠元隆琦を招請した。
結果、4次にわたる招請状の往還の末、1654年(承応3年)7月に、隠元の来日が成った。
逸然はこれを慶び以降、引首印に「請法東伝」の語句を刻み書画に捺した。
隠元が渡来すると、逸然は、興福寺の住持を隠元に移譲した上で、自身は監寺と就ったが、翌年、隠元が摂津国の普門寺に移転したため、住持に復帰した。
……

逸然性融が亡くなってから、356年と101日が経過しました。(130130日)