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和田厳足(わだいずたり)

歌人、熊本藩士[日本]

(安政6年4月27日没)

1859年 5月29日 死去享年73歳

和田 厳足(わだ いずたり、天明7年(1787年) - 安政6年4月27日(1859年5月29日))は江戸時代後期の歌人。
肥後熊本藩士。
旧姓は弓削。
本姓は橘氏。
通称は震七郎、別名は千尋、真震(まゆり)。
号は釣竜翁。
長瀬真幸に国学を学んで万葉調の歌を詠み、特に長歌に長じた。
熊本藩士としては、熊本を追われて八代、更に佐敷へと左遷され、不遇な経歴を辿った。
生涯= 熊本時代= 天明7年(1787年)、熊本藩士弓削平八の二男として熊本城下塩屋町(熊本市新町二丁目)に生まれ、同藩士和田団四郎の養子となった。
和田家は和田正遠(楠木正成の親族で建武政権の重鎮)の後裔で、慶長年間丹後国で和田総右衛門が細川忠興に200石で仕えたという。
蟹江観遊に儒学、長瀬真幸に国学を学んだ。
文化13年(1816年)8月、跡目を相続して御番方に就任した。
熊本時代、同士と京都に旅行し、琵琶湖や嵯峨野、大堰川を訪れた。
文政5年(1822年)、藩士和田金右衛門の病死時に軍用金が紛失し、長塩某が千田村(山鹿市鹿央町)の娘を訴える書状に連署したが、証拠不十分として却下され、8月4日八代城に左遷された。
八代時代= 八代では組頭副役を勤めたが、天保3年(1832年)閏11月、2月28日の和田宅酒会で上田紋吾が酒乱に及び、また禁酒処分の園部貞右衛門を招いたことが藩に咎められ、御役御免となった。
更に天保4年(1833年)11月には、1月23日養子土之助と嫡女が家出したことに対し、教 ……

和田厳足が亡くなってから、165年と176日が経過しました。(60442日)

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