鷲津毅堂(わしづきどう)
尾張藩士、儒学者[日本]
1882年 10月5日 死去享年58歳
鷲津 毅堂(わしづ きどう、文政8年11月8日(1825年12月17日) - 明治15年(1882年)10月5日)は、日本の学者、武士・尾張藩儒者、官吏。
諱は宣光(のりみつ)。
通称は郁太郎、貞助、九蔵。
曾祖父幽林は儒者。
二女恆は永井久一郎に嫁いだ。
童謡歌手の小鳩くるみとしても活動した文学研究者の鷲津名都江は毅堂の弟・蓉裳の曾孫にあたる。
毅堂の生涯は、外孫(久一郎の子)たる永井荷風による『下谷叢話』に詳しく述べられている。
略年譜=
1825年 - 尾張国丹羽郡丹羽村(現在の愛知県一宮市丹羽)出身 鷲津家は代々郷士だった
1845年 - 江戸の昌平黌に学ぶ
1867年 - 御物頭格に座席を進められ明倫堂督学に任ぜられる
1868年 - 御広敷用人を仰付けられ御小納戸頭取を兼ねる、京師に新設せられた総裁局の徴士に抜擢される
1869年 - 大学校少丞、陸前国登米県の権知事に任ぜられる
1871年 - 司法省出仕を命ぜられ宣教判官に任ぜられる
1881年 - 東京学士会院会員となる
1882年 - 没する。
墓所は谷中霊園。
1915年 - 正五位を追贈された。
人物像=
毅堂は小柄ですこし前へかがんで歩む癖があった。
面長で額は広く、目は大きくまゆは濃かったので壮年の頃には「白井権八」と綽名をつけられたほどの美男子であった。
言語には尾張の国訛りがなく、純然たる江戸弁だったという。
三島中洲のつくった碑文には「君は龐眉(ほうび) 隆準(りゅうじゅん)、孱然(せんぜん)タル虚弱、容(かたち)は ……
鷲津毅堂が亡くなってから、142年と46日が経過しました。(51912日)