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有馬頼徳(ありまよりのり)

筑後久留米藩主[日本]

(天保15年4月3日没)

1844年 5月19日 死去享年48歳

有馬頼徳 - ウィキペディアより引用

有馬 頼徳(ありま よりのり)は、筑後久留米藩の第9代藩主。
久留米藩有馬家10代。
生涯= 寛政9年(1797年)6月22日、久留米藩嫡子・有馬頼端(第8代藩主・頼貴の三男)の長男として生まれる。
頼瑞は頼貴の世子だったが早世したため、頼徳が祖父頼貴から世子に指名され、文化7年(1810年)には従四位下・侍従・上総介に叙位・任官された。
文化9年(1812年)に祖父が死去したため家督を継ぎ、玄蕃頭に遷任される。
しかし財政難のため、就任早々の幕府による関東河川の手伝い普請で領民に臨時税1192貫を課したり、文化13年(1816年)には経費を3割縮減した緊縮財政や家中からの米献納を命じたりして、財政改革に取り組んだ。
一方で、「月船」「水鴎」といった号を持ち、自らの趣味に没頭した。
文政2年(1819年)から、久留米城内に柳原御鷹場を作り始め、さらに能楽を何度も開くなどして財政をさらに悪化させた。
このため、文政6年(1823年)には江戸からの帰国中に旅費不足に陥り、急遽国許の大庄屋中から5000両を送金させる事態に陥る。
翌文政7年(1824年)から、役所整理などの経費節減による財政改革を開始したが、同年から文政11年(1828年)まで毎年洪水または不作に見舞われるという不運も重なった。
しかも、こうした中で文政8年(1825年)に柳原の庭園が完成した際には、『柳原八景詩歌』を編纂させている。
文政10年(1827年)からは御用金を取り立て、文政11年には上米の増額と ……

有馬頼徳が亡くなってから、180年と142日が経過しました。(65887日)

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