杉渓六橋(すぎたにろっきょう)
書家、政治家、男爵[日本]
1944年 10月30日 死去享年80歳
杉溪 言長(杉渓、すぎたに ときなが、1865年7月5日(慶応元年閏5月13日[1])- 1944年(昭和19年)10月30日[1][2])は、明治から大正期の神職、宮内官、政治家、日本画家(南画)、奈良華族。
貴族院男爵議員。
旧姓・山科[1]、幼名は狟丸[3]。
雅号は六橋[4]。
経歴=
山城国京都で右近衛権中将・山科言縄の三男として生まれる[1][3][5][6]。
慶応4年(1868年)興福寺妙徳院を相続し、同年、得度して住職に就任[1][3][5][7]。
同年4月(1868年)復飾を命ぜられ[1][3][5]、春日社神勤・新神司となる[3][5]。
明治2年3月(1869年4-5月)、堂上格に列した[1][3][5]。
同年11月(12月)家号を杉溪に改名した[1][5][7]。
1875年(明治8年)3月28日、華族に列し[3][5]、1884年(明治17年)7月8日、男爵を叙爵した[1][8]。
1882年(明治15年)1月、京都宮殿勤番となる[3][6][7]。
その後、殿掌を務めた[3][7]。
1890年(明治23年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、1925年(大正14年)7月9日まで5期在任した[2][7]。
この間、木曜会で活躍し、同会が分裂して清交会が結成されると主幹を務めた[4]。
1929年(昭和4年)9月2日に隠居し[1][9]、同年10月1日、養嗣子・由言が男爵を襲爵した[10]。
墓所は多磨霊園(21-1-29)
人物=
京都で画を重春塘に、禅を荻野独園に、詩を神田香巌に学んだ[4]。
その後、鎌倉円覚寺で今北洪川に入門し約3年間参禅した[4]。
早川千吉郎らの勧めで上京し、東京専門学校政治科で学んだ[4]。
さらに南画を大倉雨村に、詩 ……
杉渓六橋が亡くなってから、80年と245日が経過しました。(29465日)