岸連山(きしれんざん)
絵師[日本]
(安政6年11月14日没)
1859年 12月7日 死去
岸連山(きしれんざん、文化元年(1804年) - 安政6年11月14日(1859年12月7日))は、江戸時代後期の岸派の絵師。
京都生まれ。
旧姓、青木。
のち岸駒の養子となる。
幼名を徳次郎。
のちに昌徳、徳などと名乗る。
通称・文進。
字は士道、士進。
号は萬象楼。
経歴=
文化元年、青木新助の子として京に生まれる。
岸駒、岸良に師事する。
岸駒の長女で岸良の妻・貞の先婿との娘・晴(春)と結婚、婿養子となり第三代岸派を継承した。
文政6年(1823年)以降は父祖と同様、有栖川宮家に仕えた。
安政2年(1855年)京都御所障壁画制作では、御常御殿申口之間、御学問所雁之間・迎春南之間などを担当し、岸派の中では二代目の岸岱に次ぐ大きな仕事をしており、岸派の三代目に位置していたことが窺える。
他に光明寺や島原角屋、岸派とのゆかりが深い京都市北区天寧寺などに、作品の所蔵が確認されている。
中島来章・横山清暉・塩川文麟らと共に、幕末画壇の「平安四名家」と評された。
画風初期は、装飾的な画風を特徴としたが、晩年は四条派の影響を受け、身近な花鳥や鳥獣を、淡彩を生かしつつ墨を駆使して描く温和な画風に変化した。
連山は、岸駒の個性的表現から近代的な写生技法へ転換し、次代の竹堂へと続く岸派の近代化の契機となった絵師といえる。
墓所は上京区の本禅寺。
連山には九岳という息子がいたが後継者には選ばず、娘素子を弟子の岸竹堂と結婚 ……
岸連山が亡くなってから、164年と349日が経過しました。(60250日)