多紀元堅(たきげんけん)
幕府漢方方奥医師[日本]
(安政4年2月13日没)
1857年 3月8日 死去享年63歳
多紀 元堅(たき げんけん/もとかた、寛政7年(1795年) - 安政4年2月13日(1857年3月8日))は、江戸時代末期の幕府医官。
諱は元堅、号は茝庭(さいてい)、通称は安叔(あんしゅく)。
幕府医学館考証派を代表する漢方医で、子に同じく幕府医官の多紀元琰がいる。
やはり医官であった森鷗外の史伝『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』にも登場する。
丹波元堅、多紀三松(たき さんしょう)とも。
人物=
江戸時代後期、医学館総裁の多紀元簡(号は桂山)の第5子として生まれ、多紀家から分家して矢の倉多紀家の初代に据えられた。
はじめ町医者として市中で開業していたが、天保6年(1835年)12月16日、幕府に召し出されて一家を興し、奥詰医師に任命される。
翌7年(1836年)11月19日に奥医師に任命され、同年12月16日に法眼に叙せられる。
同11年(1840年)12月16日、法印に昇進し、楽真院と称した。
のちに、将軍徳川家慶の諡号「慎徳院」の「慎」と「真」の類似からこれを避け、楽春院と改称した
法印の座のまま没するまで、家斉・家慶・家定の3代に仕えた。
考証派=
考証派の学風は、古典医学書の収集・復元に努めるもので、その成果は中国のそれを凌駕するといわれる[要説明]。
父の元簡は多紀元悳原撰『観聚方』80巻から記述を精選して『観聚方要補』10巻を編纂しようとしたが志半ばで急逝したため、元胤と元堅の兄弟が引き継ぐと、文政2年(1819年)に元簡の遺稿として刊行された。
……
多紀元堅が亡くなってから、167年と257日が経過しました。(61254日)