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佐川田昌俊(さがわだまさとし)

戦国武将、山城淀藩・家老、歌人[日本]

(寛永20年8月3日没)

1643年 9月15日 死去享年65歳

佐川田 昌俊(さがわだ まさとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。
永井氏の家臣。
山城国淀藩の家老。
略歴= 天正7年(1579年)、誕生。
下野国の出身で、はじめ上杉景勝に仕えた。
このときに上杉氏の家臣である木戸玄斎の養子となっている。
上杉家を離れた時期は不明だが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し大津城の戦いに参加、先登して負傷している。
戦後は浪人していたが、徳川氏の家臣である永井直勝に見出されて永井家に身を寄せたがこの時はなぜか無禄であった。
大坂の陣では永井軍の大将として参加した。
元和2年(1616年)に直勝と共に江戸に移った。
直勝の死後は直勝の嫡男・尚政に仕えた。
尚政には寵愛され、家老として実質的に藩政を主導した。
寛永10年(1633年)には藩の転封に従って山城淀に居を移している。
有名な「淀の水車」を設け淀城内に給水したのも彼の着想という。
寛永15年(1638年)に病を得たため子・俊輔に家督を譲って隠居、洛南一休寺の傍らに庵を構えて黙々と号した。
伝記には「禅に参じ、山水を翫び、意を方外に遊ばしむ」とある。
寛永20年(1643年)8月3日、死去。
享年65。
墓は一休寺の一角に在り、林羅山撰の大きな碑の横に立つ自然石の墓石には「是何麼(これなんぞや)」とだけ刻んである。
人物= 智勇兼備の名士で、茶道を小堀遠州に学び、連歌は里村昌琢、書は松花堂昭乗、漢学は ……

佐川田昌俊が亡くなってから、381年と65日が経過しました。(139225日)