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濱田庄司(はまだしょうじ)

陶芸家[日本]

1978年 1月5日 死去享年85歳

濱田庄司 - ウィキペディアより引用

濱田 庄司(はまだ しょうじ、1894年(明治27年)12月9日 - 1978年(昭和53年)1月5日、本名象二)は、主に昭和に活躍した日本の陶芸家。
民藝運動の中心的な活動家の一人であり、栃木県益子町に定住し、益子焼の中興の祖となった。
長男の濱田琉司は毎日新聞社記者。
次男の濱田晋作、三男の濱田篤哉、孫(晋作の次男)の濱田友緒はいずれも陶芸家、四男の濱田能生は硝子工芸家。
生涯= 神奈川県橘樹郡高津村(現在の川崎市)溝ノ口で、濱田久三の子として母の実家である太田医院 で生まれる。
東京府立一中(現東京都立日比谷高等学校)を経て、1913年(大正2年)、東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科に入学、板谷波山に師事し、窯業の基礎科学面を学ぶ。
1期上の各務鑛三とは生涯交友を持った。
1916年(大正5年)同校を卒業後は、2年先輩の河井寛次郎と共に京都市立陶芸試験場にて主に釉薬の研究を行う。
またこの頃、柳宗悦、富本憲吉、バーナード・リーチの知遇を得る。
1920年(大正9年)、イギリスに帰国するリーチに同行、共同してコーンウォール州セント・アイヴスに築窯する。
1923年(大正12年)にはロンドンで個展を開催、成功する。
1924年(大正13年)帰国、しばらくは沖縄・壺屋窯などで学び、1930年(昭和5年)からは、それまでも深い関心を寄せていた益子焼の産地、栃木県益子町で作陶を開始する。
ほとんど手轆轤のみを使用するシンプルな造形と、釉薬の流描 ……

濱田庄司が亡くなってから、46年と320日が経過しました。(17122日)