芸能人・経営者のおくやみ情報

米田一典 氏(よねだかずのり)

元男子バレーボール選手、指導者[日本]

(元全日本女子監督)

2012年 2月26日 死去肺がん享年63歳

米田 一典(よねだ かずのり、1950年6月24日 - 2012年2月26日)は、日本のバレーボール元選手・指導者。
元全日本女子バレーボールチーム監督、チャレンジリーグ・仙台ベルフィーユ監督を歴任。
広島県広島市安佐南区出身。
来歴= 崇徳高校3年生時の1968年高校総体で、セッター・主将として中大附属高校を降し優勝。
同年国体では柳本晶一擁する大商大付属高校を降して優勝し、2冠を達成した。
1973年、法政大学在学中に日立女子バレーボール部にコーチとして就任。
1975年、監督に昇格し日立を常勝チームに育て上げた。
1974年には全日本女子チームコーチに就任、山田重雄監督の片腕として活躍し、1976年モントリオールオリンピック、1977年W杯の金メダル獲得に貢献した。
1984年ロサンゼルスオリンピックでは全日本女子監督に就任して、江上由美、三屋裕子らを擁して銅メダルを獲得。
1990年、再び全日本女子監督に就任、この時の米田が事実上のプロ代表監督第1号といわれる。
1992年バルセロナオリンピックでは5位の成績を残した。
全日本女子監督として通算204勝108敗は、小島孝治232勝154敗に次ぐ歴代2位の記録である。
当時の主力・大林素子らとの確執があって全日本監督を退いた後、再び日立監督として活躍したが、2001年5月、日立製作所本社の合理化の一環として日立ベルフィーユ廃部。
チーム全体移籍の受け皿企業を確保しようと奔走したが、折からの景気低迷で全体移籍は適わな ……

女子バレーボールの全日本や日立の監督を務めた米田一典(よねだ・かずのり)さんが26日午後1時42分、肺がんのため仙台市内の病院で死去した。61歳だった。広島県出身。葬儀は近親者で行い、後日お別れ会を開く(日時未定)。 広島・崇徳高、法大を経て日立のコーチとなり、1976年モントリオール五輪では全日本女子のコーチとして山田重雄監督(故人)を支え、金メダル獲得に貢献した。84年ロサンゼルス五輪は銅メダル。92年バルセロナ五輪では監督を務めて5位となった。 2001年の日立廃部後は、地域密着型チームを目指して05年に高松市に四国エイティエイツを結成。四国が経営難で活動停止となり、昨年7月に拠点を移して仙台ベルフィーユとして再出発したが、9月から体調を崩して入院していた。 

米田一典さんが亡くなってから、12年と269日が経ちました。(4652日)

「米田一典」と関連する故人