河村保彦 氏(かわむらやすひこ)
元プロ野球選手[日本]
2012年 2月21日 死去膵臓がん享年73歳
河村 保彦(かわむら やすひこ、1940年7月15日 - 2012年2月21日)は、岐阜県多治見市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。
経歴=
多治見工業では2年次の1957年からエースとして活躍し、同年には夏の甲子園予選三岐大会で決勝に進出する。
岐阜商の清沢忠彦と互いに無失点で投げ合うが、9回裏に決勝点を許しサヨナラ負けを喫する。
3年次の1958年は甲子園に春夏連続出場を果たし、春の選抜では2回戦(初戦)で、後にプロで同僚となる熊本工の成田秀秋と投げ合い0-1で惜敗。
夏の選手権も1回戦で姫路南高に敗れる。
卒業後の1959年、中日ドラゴンズに入団。
同期の投手には成田をはじめ、板東英二、水谷寿伸、伊藤竜彦(野手転向)らがいた。
1961年に13勝を挙げ、初めて規定投球回(10位、防御率2.53)に達する。
その後も主力投手として活躍し、1963年には開幕投手に抜擢され19勝14敗、防御率2.68(6位)の好成績を挙げた。
1964年も開幕投手となったが同年は7勝10敗、シーズン毎の好不調の波が激しく、監督泣かせの投手であった。
マリオネットのような直線的な投球フォームが特徴で、カーブ、スライダー、シュート、シンカー、フォークと主要球種はすべて投げたほか、フルカウントになることが多かった。
1966年は6月5日から1か月以上勝ち星から遠ざかったこともあって、験担ぎのつもりで同年7月15日の自身の誕生日に登録名を「河村達彦」に変更。
1968年、サンケイアトムズに ……
河村 保彦氏(かわむら・やすひこ=元中日、ヤクルト投手)21日午後7時34分、膵臓(すいぞう)がんのため、愛知県豊明市内の病院で死去、71歳。岐阜県多治見市出身。通夜は23日午後7時から、葬儀は24日正午から、名古屋市千種区千種2の19の1、いちやなぎ中央斎場で。喪主は長男隆之(たかゆき)氏。 岐阜・多治見工を経て、1959年に中日入り。68年にサンケイ(現ヤクルト)に移籍、71年までプレーした。444試合に登板し、74勝88敗。93年にはヤクルトで投手コーチを務めた。
河村保彦さんが亡くなってから、12年と238日が経ちました。(4621日)