村田広光 氏(むらたひろみつ)
元陸上競技選手、トレーナー[日本]
(中日ドラゴンズ寮館長)
2003年 5月27日 死去膵臓がん享年58歳
村田 広光(むらた ひろみつ、1946年11月28日 - 2003年5月27日)は、日本の陸上競技選手、プロ野球コーチ(アスレティックトレーナー)。
宮崎県児湯郡都農町出身。
来歴=
学生時代は陸上選手だった。
1964年には聖火リレーの走者を務める。
宮崎県立向洋高等学校(現:宮崎県立延岡工業高等学校)では1965年のインターハイで史上初の3種目(100m、200m、400m)制覇を果たし、順天堂大学では、3年生時に関東学生陸上競技対校選手権大会(関東インカレ)で100m、200m、400m、400mリレー、1600mリレーの五冠に輝く(翌4年生時には三冠制覇)。
日本陸上競技選手権大会では、男子200mで1967年、1968年と連覇し、1970年にも優勝するなど三度栄冠に輝いた。
順天堂大学卒業後は西日本新聞社に入社し、1970年、バンコクでのアジア大会日本代表として4x400mリレーで優勝した。
その後、プロ野球・阪急ブレーブスの担当記者を務め、1月の自主トレ、2月の春季キャンプでは臨時コーチを務めた。
阪急は1975年から77年にかけて3年連続で日本一を達成し、監督の上田利治は村田を「陰の功労者」と讃えた。
1978年12月、中日ドラゴンズのトレーニングコーチに就任し、1999年まで約20年近くに渡り同球団でコーチを務め(1993年-1995年途中はコーチ職を離れる)、多くの選手の基礎体力増進に力を注いだ。
「ヒゲの村田」「鬼の村田」と選手たちからは恐れられたが、その一方で「怪我なくプレーできたのは村田先生のおかげ」と感謝 ……
村田広光さんが亡くなってから、21年と179日が経ちました。(7849日)