嘉慶帝
清朝第7代皇帝[清]
(嘉慶25年7月25日没)
1820年 9月2日 死去
嘉慶帝(かけいてい)は、清の第7代皇帝。
諱ははじめ永琰(えいえん)、即位後に顒琰(ぎょうえん)と改めた。
廟号は仁宗(じんそう)。
在世時の元号の嘉慶を取って嘉慶帝と呼ばれる。
生涯=
乾隆25年(1760年)、乾隆帝の十五男として生まれる。
乾隆60年(1795年)、85歳の乾隆帝から譲位を受けるが、乾隆帝は太上皇となっても実権は手放さなかったため、嘉慶帝は飾り物の皇帝に甘んじた。
乾隆帝が嘉慶4年(1799年)に崩御すると、嘉慶帝は真っ先に乾隆帝が重用していた奸臣ヘシェン(和珅)を誅殺した。
周りの人間全てがヘシェンのことをろくでもない奸臣であると見抜いていたのに、耄碌した乾隆帝だけは信任し続けたため、乾隆帝が生きている間はどうしようもなく、ヘシェンは国家に入るべき歳入のかなりの額を懐に入れていた。
ヘシェンから没収した財産は、実に国家の歳入の10~15年分に当たったといわれている(当時の清は世界のGDPの3割を占めており、ヘシェンは世界最大の富豪だったことになる)。
乾隆中期以降の清は綱紀弛緩が甚だしかった。
嘉慶帝はこれを修繕しようと試みたが、あまり芳しい結果は得られなかった。
この頃の中国の人口は、100年前が2億ほどだったのに対して、4億を突破していた(全体的にみれば比較的平和な状勢が続いたこと、この頃に新大陸原産の作物であるトウモロコシやサツマイモおよびジャガイモ、落花生などが導入され、農業生産とカ ……
嘉慶帝が亡くなってから、204年と79日が経過しました。(74590日)