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松平康隆 氏

元バレーボール選手、監督[日本]

(1972年ミュンヘン五輪で金メダル)

2011年 12月31日 死去肺気腫享年81歳

松平 康隆(まつだいら やすたか、1930年1月22日 - 2011年12月31日)は、日本のバレーボール全日本選手、バレーボール全日本男子代表監督、日本バレーボール協会名誉顧問、アジアバレーボール連盟終身名誉会長、国際バレーボール連盟名誉副会長、日本オリンピック委員会名誉委員。
位階は正五位。
2008年3月から“心の東京革命”推進協議会(東京都青少年育成協会)会長を務めた。
来歴= 1930年(昭和5年)1月22日、東京府東京市荏原区(現・東京都品川区) 出身。
松平は旧加賀藩士で家老職をつとめ、幕末には数年間小松城代をつとめた松平大弐家の血を引く家系であった。
東京府立第二十二中学校から東京都立城南高等学校(現・東京都立六本木高等学校)に改称した時の城南一期生で、この時の同級生であり親交の深かった友人が大平透(声優・ナレーター)であった。
1947年、慶應義塾大学法学部政治学科に入学する。
バレーボール部の主将として、1951年には全日本9人制選手権大会で優勝、天皇杯を獲得した(学生チームとして戦後初)。
1952年、慶大を卒業(学位は法学士)し、日本鋼管(現・JFEホールディングス)に入社、バレーボール部では選手や監督兼主将として活躍する(ポジションは守備の要・バックセンター)。
1954年には、9人制の選手として全日本入りした。
1961年、現役を引退し、6人制バレーを学ぶためにソ連に留学する(日ソ「スポーツ交流協定」の第1号として文部省から ……

1972年ミュンヘン五輪バレーボール男子で日本の監督として金メダルを獲得し、日本バレーボール協会会長、国際バレーボール連盟副会長としても多大な功績を残した松平康隆(まつだいら・やすたか)氏が昨年12月31日午後0時21分に肺気腫のため東京都の病院で死去した。81歳だった。東京都出身。葬儀は近親者で済ませた。 慶応大、日本鋼管で9人制のバックセンターとして活躍。日本鋼管では選手兼任監督も務めた。61年、ソ連へバレー留学。帰国して指導者の道を歩んだ。 64年東京五輪で日本男子のコーチとして銅メダルを獲得し、その後監督に就任。「世界制覇8年計画」を公言し、ミュンヘン五輪金メダルを目指した。 68年メキシコ五輪で銀。目標のミュンヘンではエース大古誠司、セッター猫田勝敏をはじめ森田淳悟、横田忠義、嶋岡健治らを擁して公約を果たした。ユニークな練習方法や時間差攻撃、1人時間差など画期的な戦法を編み出し、バレーの戦法に大革命をもたらした。団体スポーツでは、日本男子の五輪金メダルはほかに84年の野球(公開競技)しかない。 「人気が実力を高める」を信念とし、男子バレーのブームを巻き起こすことにも腐心。厳格なアマチュアリズムが存在した70年代にあっては批判を浴び、第一線から離れた時期もあったが、復帰後は日本協会の専務理事、会長として手腕を発揮した。 国内ではテレビを巻き込んでブームを演出。国際舞台では日本が世界各国へのバレー普及に貢献した実績とジャパンマネーを背景に発言力を強め、ワールドカップ日本恒久開催などに尽力した。 FIVB副会長、アジア・バレー連盟会長、日本オリンピック委員会の要職も歴任した。2001年から日本協会名誉会長。著書に「負けてたまるか」など。 (2012/01/05-13:02)

松平康隆さんが亡くなってから、12年と326日が経ちました。(4709日)

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