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松平乗寿(まつだいらのりなが)

美濃岩村・遠江浜松 藩主[日本]

(承応3年2月1日没)

1654年 3月19日 死去享年55歳

松平乗寿 - ウィキペディアより引用

松平 乗寿(まつだいら のりなが)は、江戸時代前期の大名。
美濃国岩村藩主、遠江国浜松藩主、上野国館林藩初代藩主。
大給松平家宗家7代。
略歴= 慶長5年1月12日(1600年2月26日)、大給松平家宗家6代・松平家乗の長男として生まれた。
慶長19年(1614年)、父の死により15歳で家督を継いだ。
同年冬からの大坂冬の陣に出陣し、京都の二条城にて美濃衆の組頭に命じられ、稲葉正成・遠藤慶隆・竹中重門・稲葉方通・平岡頼資・妻木頼忠・遠山利景・小里光明・大島高木の輩などの諸将を率いて河内の枚方に布陣し、大坂方と対峙した。
大坂方は枚方の出口村の堤を掘って淀川の水を溢れさせ、人馬の道路を塞いだが、乗寿は幕府より命を受けて埋め直した。
後に大坂方と和睦の際に、玉造口の堤を切り崩し、大坂城の堀を埋めて帰った。
慶長20年(1615年)5月に勃発した大坂夏の陣では、美濃と信濃の将士を率いて、枚方に再度陣を敷いた。
この時、山田十太夫、中川半兵衛などが上使として来訪し、「京極若狭守と京極丹後守が出口村に陣す。
大坂方が若し出て合戦すれば、貴公は後詰として、若し京極の兵が敗れれば、横合からこれを討て」との命を伝えられた。
5月7日に京極勢が備前島に進み、乗寿も守口に進んだ。
時に大坂城は落城し、敗兵が逃れ出ようとしていたので捕らえて、57名の首を斬り、夜になって枚方の陣へ戻った。
乗寿は初陣で功を挙げたことで幕府から重んじられる ……

松平乗寿が亡くなってから、370年と244日が経過しました。(135387日)

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