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佐々木定綱(ささきさだつな)

武将[日本]

(頼朝の挙兵を助ける、元久2年4月9日没)

(ユリウス暦) 1205年 4月29日 死去享年64歳

佐々木 定綱(ささき さだつな)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。
近江国の佐々木荘を地盤とする佐々木氏の棟梁である佐々木秀義の嫡男。
母は源為義の娘。
平治元年(1159年)の平治の乱で源義朝に従い平氏と戦った父の敗北により、共に関東へと落ち延びる。
伊豆国に流罪となった源頼朝の側近として仕え、弟たちと共にその挙兵を助けた。
生涯= 平治の乱で敗走したのち、父の秀義は所領の近江佐々木荘を逃れて相模国渋谷荘に滞在しており、定綱は下野国宇都宮に客居していた。
治承4年(1180年)、以仁王の挙兵の3ヶ月後の8月、秀義は大庭景親に招かれて頼朝討伐の事を知り、たまたま渋谷荘にいた定綱を使いとして頼朝に危急を知らせた。
8月17日、定綱は弟たちと共に平氏打倒を決意した頼朝に従い、平兼隆の後見で勇士とされた堤信遠を討つべくその邸宅へと赴き、弟の経高、高綱と共に信遠を討つ。
20日、頼朝に従い相模国へと進軍するが石橋山の戦いで敗れる。
安房国へ逃れ再び兵を集めた頼朝は10月20日の富士川の戦いで平氏を破り、23日に行われた挙兵後初の論功行賞で、定綱ら兄弟は旧領の佐々木庄を安堵される。
頼朝を大将とする軍は鎌倉に本拠を構え、その後多くの戦いを経て文治元年(1185年)に壇ノ浦の戦いで平氏一門を滅ぼした。
その後も戦功を上げ続け、近江、長門、石見、隠岐の守護へと任ぜられる。
建久2年(1191年)、佐々木荘で千僧供料の貢納を ……

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