近藤長次郎(こんどうちょうじろう)
土佐藩士、幕末の志士[日本]
1866年 2月28日 死去切腹享年29歳

近藤 長次郎(こんどう ちょうじろう、天保9年3月7日(1838年4月1日) - 慶応2年1月14日(1866年2月28日))は、幕末の日本の政治家。
名を春宗。
別名は上杉宋次郎、近藤昶次郎、梅花道人。
生涯=
近藤長次郎邸跡碑(高知市上町2丁目)
高知城下の饅頭商人の息子として生まれ、長次郎自身も饅頭を売り歩いていたため、はじめは苗字がなく饅頭屋長次郎と呼ばれた。
幼少期から聡明で土佐では河田小龍の塾に入門し、その後岩崎弥太郎に師事。
安政6年(1859年)、土佐藩の重役由比猪内の従僕として江戸に留学し、儒学を安積艮斎、洋学を手塚玄海、砲術を高島秋帆に学んだ。
文久2年(1862年)、勝海舟に入門した。
その才能を山内容堂にも認められて文久3年(1863年)に名字帯刀を許され、同年6月、神戸の勝私塾に入門して航海術を学んだ。
元治元年(1864年)5月、神戸海軍操練所が開設され、「勝阿波守家来」として聴講生のような形で入所した。
その後、勝が失脚したため、行き場を失い脱藩した。
この間の文久3年(1863年)9月に大坂で大和屋弥七の娘・お徳と結婚して翌年7月に長男をもうけている。
勝は薩摩藩に援助を要請し、薩摩藩も軍艦の乗組員が不足していたので、近藤らは薩摩藩に取り込まれることになり、元治2年2月、鹿児島に向かい、小松帯刀の下で艦船の運用に従事したりする、土佐藩を中心とする脱藩浪士の集団となり、社中と自称した。
この段階では坂本龍馬とは一切関 ……
近藤長次郎が亡くなってから、159年と14日が経過しました。(58089日)