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瀬川路三郎(せがわみちさぶろう)

俳優[日本]

1968年 2月23日 死去腎不全享年75歳

瀬川 路三郎(せがわ みちさぶろう、1894年2月12日 - 1968年2月23日)は、日本の俳優である。
本名は岡田 茂雄(おかだ しげお)である。
瀬川 路雄(せがわ みちお)とも名乗った。
人物・来歴[編集] 1894年(明治27年)2月12日、東京府東京市日本橋区浜町(現在の東京都中央区日本橋浜町)に「岡田茂雄」として生まれる。
旧制・深川尋常小学校(現在の江東区立深川小学校)を卒業、満16歳となる1910年(明治43年)、歌舞伎狂言の作者・四代目瀬川如犀に師事した。
京都に移り、満30歳になる1924年(大正13年)、マキノ映画製作所等持院撮影所に入社、沼田紅緑監督の『春は花遠山桜』、二川文太郎監督の『情熱の火』に出演して映画界にデビューした。
同年、マキノが合併して東亜キネマになったのちに帝国キネマ演芸に移籍し、1925年(大正14年)、森本登良男監督の『荒木又右衛門』等に出演したが、同年、悪麗之助監督の『長脇差』を最後に東亜キネマに戻る。
戻った第1作は同じく帝国キネマから移籍した悪麗之助監督の『追はれ行く人』であった。
1928年(昭和3年)、片岡千恵蔵がマキノ・プロダクションを独立し、片岡千恵蔵プロダクションを設立、これに参加し、伊丹万作監督の『続万花地獄 第一篇』に出演した。
1937年(昭和12年)の同社の解散まで、千恵蔵映画を支えた。
同年、日活京都撮影所に入社、同時期にマキノトーキー製作所を解散して入社してきたマキノ正博(のちのマキノ雅 ……

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瀬川路三郎が亡くなってから、56年と155日が経過しました。(20609日)