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李自成(りじせい)

反乱軍指導者[明]

(永昌2年5月17日没)

1645年 6月10日 死去享年40歳

李自成 - ウィキペディアより引用

李 自成(り じせい)は、明末の農民反乱の指導者。
明に対して李自成の乱と呼ばれる反乱を起こして首都の北京を陥落させ、明を滅ぼした。
順王朝(大順)を建国して皇帝を称したが、すぐに清に滅ぼされた。
もとの名は鴻基。
李継遷(西夏の初代皇帝李元昊の祖父)の末裔を称した。
生涯[編集] 農民反乱[編集] 延安府綏徳州米脂県常峁墕(現在の陝西省楡林市横山区韓岔鎮)の人。
延安府綏徳州米脂県李継遷寨(現在の陝西省楡林市横山区殿市鎮)の出身。
農民の子で少年時代から騎射が得意で20歳前後で駅卒になったが、崇禎帝の時期に経費節減のため駅站は廃止された。
駅站廃止によって失業した者たちは路頭に迷い、農民反乱を起こすことになる。
李自成もその中の一人であった。
天啓7年(1627年)・崇禎元年(1628年)に陝西で起きた大旱魃をきっかけに反乱が頻発し、李自成もそれに参加した。
その間の朝廷は満洲族対策に追われて満足に反乱対策を行えず、これに乗じて反乱軍は勢力を拡大し、山西を制圧し、北直隷まで迫るほどになった。
その後、官軍の反撃により押し返され、河南へと移動する。
この時期の反乱軍首領は高迎祥であり、その下に張献忠などがいた。
李自成は高迎祥配下の武将の一人に過ぎなかったが、この時の作戦会議「滎陽大会」で官軍に対して全軍が協調して当たるべきだと発言して注目され、さらに翌年には官軍に捕らえられて刑死した高迎祥の ……

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李自成が亡くなってから、379年と40日が経過しました。(138470日)

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