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崇禎帝(すうていてい)

明朝第17代皇帝[明]

(崇禎17年3月19日没)

1644年 4月25日 死去自殺享年34歳

崇禎帝 - ウィキペディアより引用

崇禎帝(すうていてい)は、明の第17代(最後)の皇帝。
諱は由検(ゆうけん)。
廟号ははじめは思宗、のちに改めて毅宗(以上は南明弘光帝による)、威宗(隆武帝による)、懐宗(清による)。
諡号は弘光帝が紹天繹道剛明恪倹揆文奮武敦仁懋孝烈皇帝としたが、清が欽天守道敏毅敦儉弘文襄武體仁致孝懷宗端皇帝、そしてのちに欽天守道敏毅敦儉弘文襄武體仁致孝莊烈愍皇帝と改めた。
一般的に清における崇禎帝の諡号を清の2つ目の諡号を略し莊烈愍皇帝とする。
また清は崇禎帝を明朝歴代皇帝と同じ北京昌平山に葬り、陵墓を「思陵」とした。
生涯= 第15代皇帝泰昌帝の五男として生まれた。
天啓2年(1622年)に兄の天啓帝より信王に封じられた。
天啓7年(1627年)に天啓帝が急死し、その男子がみな夭折していたため、翌崇禎元年(1628年)に皇位を継ぐことになった。
即位してすぐに、兄帝の下で専横を振るった宦官魏忠賢を排除し、名臣として名高い徐光啓を登用するなど国政改革に取り組んだ。
当時は北に満州族の後金が侵攻し、南では李自成たちの反乱が多発した、まさしく国事多難の時期であり、崇禎帝はこの状況をたった一人で支えようと懸命に努力した。
崇禎帝は祖父万暦帝や兄天啓帝らと違い、政治に熱心であり、色事にふけるようなこともなく、倹約を心がけていた。
しかし猜疑心が強く、臣下を信用できない悪癖を有していた。
即位直後から重臣を次々と誅殺し ……

崇禎帝が亡くなってから、380年と207日が経過しました。(139002日)

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