田中新一(たなかしんいち)
陸軍中将[日本]
1976年 9月24日 死去享年84歳
田中 新一(たなか しんいち、1893年(明治26年)3月18日 - 1976年(昭和51年)9月24日)は、大正・昭和時代の陸軍軍人。
最終階級は陸軍中将。
経歴=
本籍新潟県。
村松藩士・農業、田中寅五郎の長男として北海道釧路で生まれる。
仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月陸軍士官学校(25期)を卒業。
同期に武藤章・富永恭次・佐藤幸徳・山内正文・山崎保代。
同年12月、陸軍少尉任官、歩兵第52連隊付となる。
1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)卒業。
李王垠、栗林忠道、洪思翊、富永恭次、林義秀、那須弓雄らが同期。
1928年(昭和3年)から3年間に亘りソ連、ポーランドに駐在。
満州国成立後、関東軍参謀に就く。
1936年(昭和11年)3月に陸軍省軍務局課員、同年8月に兵務局兵務課長となる。
1937年(昭和12年)1月の宇垣一成への組閣大命降下に際しては、嘗ての陸軍実力者による掣肘を嫌う石原莞爾参謀本部作戦課長らと陸軍中央を説得、陸相を推挙させずに宇垣内閣を流産させる。
なお、反宇垣派の中心的な人物であった田中と石原は仙台陸軍地方幼年学校の出身で、田中の原隊は歩兵第52連隊、石原の原隊は歩兵第65連隊でこれらはすべて宇垣軍縮により廃止されている。
この怨念が反宇垣に走る原動力だったと理解することもできる。
同年3月には軍務局軍事課長に就任。
7月7日の盧溝橋事件発生に当たり、武藤章参謀本部作戦課長と連携し ……
田中新一が亡くなってから、48年と58日が経過しました。(17590日)