金栗四三 氏(かなくりしそう)
マラソン選手、陸上指導者[日本]
(日本人初のオリンピック選手として、1912年のストックホルム五輪に参加)
1983年 11月13日 死去享年93歳

金栗 四三(かなくり しそう〈読みについては後述〉、1891年〈明治24年〉8月20日 - 1983年〈昭和58年〉11月13日)は、日本のマラソン選手、学校教員。
位階は従五位。
青壮年期にオリンピックのマラソン競走に日本代表選手として参加した。
また裏方としても各マラソン大会や東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の開催に尽力したり、日本に高地トレーニングを導入したりするなど、日本マラソン界の発展に大きく寄与したことから「日本マラソンの父」と称される。
名前=
名前の読みは文献により「かなぐり」「かなくり」、「しそう」「しぞう」と一致しない。
これについて熊本県和水町社会教育課では「どれが正しく、どれが正しくないとは言えない。
それぞれの呼び方で親しんでいただければ」としている。
なお1914年(大正3年)に養子に入り本名も池部四三となったが、養子先の計らいでその後も金栗姓を用いつづけた。
名誉市民として顕彰している玉名市では、かつては市のウェブサイトで『玉名市では「かなくり しぞう」と読むことで統一しています。
これは、金栗さん本人が昭和37年(1962)に書いた英文の手紙に「Shizo Kanakuri」と署名していること、昭和39年オリンピック東京大会組織委員会発行の身分証明書での「KANAKURI SHIZO」、昭和42年(1967)外務省発行のパスポートでの「SHIZO IKEBE」というアルファベット表記によるものです。
』としていた。
しかし、「SHISO」と署名してい ……
金栗四三が亡くなってから、41年と140日が経過しました。(15115日)