宇田川榕菴(うだがわようあん)
蘭学者[日本]
(弘化3年6月22日没)
1846年 8月13日 死去享年49歳
宇田川 榕菴(うだがわ ようあん、1798年4月24日(寛政10年3月9日) - 1846年8月13日(弘化3年6月22日))は、津山藩(岡山県津山市)の藩医で蘭学者。
名は榕、緑舫とも号した。
宇田川榕庵とも表記される。
それまで日本になかった植物学、化学等を初めて書物にして紹介した人物である。
元服前の14歳の時、江戸詰めの大垣藩医の家から養子に出され藩医となる。
宇田川家は蘭学の名門として知られ、養父である宇田川玄真、また玄真の養父である宇田川玄随、榕菴の養子である宇田川興斎も蘭学者、洋学者として知られる。
生涯=
大垣藩(現在の岐阜県大垣市)の江戸詰め医、江沢養樹の長男。
父の師匠である藩医宇田川玄真に才を見出され玄真の養子となり、養父・玄真に学び玄真とともに幕府に重用された。
1826年、天文方蕃書和解御用の翻訳員となり、ショメール百科事典の翻訳書『厚生新編』(こうせいしんぺん)の作成に従事したとされる。
父子の逸話として、慕っていた養父・玄真の養生のために、榕菴は温泉の効能(泉質)を調べており、これが日本で初めて行われた温泉の泉質調査であったといわれている。
シーボルトとも親交があったことでも知られる。
墓所は泰安寺。
歴代の宇田川家の人々とともに眠る。
大正4年(1915年)、正五位を追贈された。
著作=
ショメール百科事典の翻訳書『厚生新編』(共著)
医学書
玄真との共著で1822年から1825年にかけて『遠西医方名 ……
宇田川榕菴が亡くなってから、178年と99日が経過しました。(65114日)