松永久通(まつながひさみち)
戦国武将[日本]
(松永久秀の嫡男、天正5年10月10日没)
(ユリウス暦) 1577年 10月10日 死去自害享年35歳
松永 久通(まつなが ひさみち)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
松永久秀の嫡男。
生涯=
天文12年(1543年)、三好氏の家臣・松永久秀の嫡男として誕生。
早くから父に従い、永禄6年(1563年)閏12月に従五位下右衛門佐に叙位・任官し、同月に家督を譲られ大和多聞山城主となる。
永禄7年(1564年)6月22日、主君・三好長慶の甥で養嗣子の三好義継に従い上洛、23日に室町幕府13代将軍・足利義輝と謁見し、義継は長慶の後継者としての地位を確認された。
7月4日には長慶が死去し、義継が名実ともに三好家当主の座についた。
永禄8年(1565年)5月1日には義継や三好長逸とともに上洛して義輝に出仕し、義継とともに偏諱を受けて、久通は「義久」に改名した。
しかし5月19日、義継や長逸、久通は一万余りの軍勢を率いて再び上洛し、二条御所にいた義輝を襲撃、殺害した(永禄の変)。
この後、名を義久から久通に戻した。
同年から父・久秀と長逸ら三好三人衆の内戦が始まり、永禄9年(1566年)6月に父が姿をくらますと多聞山城の守備に徹し、永禄10年(1567年)4月に父が復帰するまで三人衆方の筒井順慶と大和で戦った。
永禄11年(1568年)9月、織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、父と共に義昭に帰参し、義昭・信長から大和支配を認められる。
10月には筒井順慶から筒井城を奪い、その他の筒井方諸城も義昭・信長からの援軍を受けて攻略していった。
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