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蹄斎北馬(ていさいほくば)

浮世絵師[日本]

(魚屋北渓とともに、葛飾北斎の門人では双璧といわれる、弘化元年8月6日没)

1844年 9月17日 死去享年75歳

蹄斎北馬 - ウィキペディアより引用

蹄斎 北馬(ていさい ほくば、明和7年(1770年) - 弘化元年8月6日(1844年9月17日))とは、江戸時代後期の浮世絵師。
来歴= 葛飾北斎の門人。
北斎の弟子の中では筆頭にあげられ、魚屋北渓と共に双璧とされる。
姓は有坂、本姓星野、俗称五郎八。
諱は光陰。
蹄斎、駿々斎、駿々亭、秋園などと号す。
江戸の生まれで、下谷御徒町(現・台東区台東)神田に住む貧しい御家人の家に生まれた。
しかし武家務めを窮屈に思い、文政元年(1818年)までに家督を弟に譲って隠居・出家し、画で家計を助けるため北斎に入門したという。
入門時期は不明だが、北馬最初の版本『狂歌花鳥集』は寛政12年(1800年)に刊行していることから、入門はこの数年前だと推測される。
初期の寛政から文化期にかけては制作した制作した狂歌本や読本、摺物には北斎の影響が顕著である。
北馬の画風は北斎に比べて柔らか味がある独自のもので、滝沢馬琴、高井蘭山、振鷺亭らの読本の挿絵を、文化9年(1812年)までに少なくとも60種類発表し、同門の北鵞と合作で黄表紙の挿絵も描いた。
一方で浅草庵市人に狂歌を習い、狂歌集に歌が掲載されるとともに、狂歌摺物などを多数制作している。
しかし一枚刷りの錦絵は殆ど手掛けていない。
文化10年(1813年)頃の刊行と見られる戯作者と浮世絵師の見立相撲番付では歌川豊国、国貞についで第三位の小結の位置を占めており、名声を博していたことが窺える。
文 ……

蹄斎北馬が亡くなってから、180年と64日が経過しました。(65809日)

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