國吉清尚 氏(くによしせいしょう)
陶芸家[日本]
1999年 5月10日 死去自殺享年57歳
國吉 清尚(くによし せいしょう、1943年(昭和18年)9月28日 - 1999年(平成11年)5月10日)は首里城南殿生まれの陶芸家。
(国吉清尚)
那覇高校卒業、1963年陶工として壺屋の陶工小橋川永昌に師事し、壺屋の修行時代に人間国宝濱田庄司と出会い、1966年栃木県益子の県立窯業指導所で神崎正樹の元で修行。
濱田庄司、加守田章二に私淑。
1968年沖縄に戻り読谷に自らの工房(ヒメハブ窯)を開いた。
沖縄への帰郷時に浜田庄司から「一番優秀だから益子に残るように」引き留められている。
1973年秦秀雄が清尚の窯を訪ねる。
1975年秦秀雄が季刊「銀花」で紹介。
1992年に那覇で開かれた展覧会のタイトルが「僕ハモットツヨククナリタイ 國吉清尚黒陶展 華器 武器 秘器」であった。
1972年に 金城次郎が読谷村(国吉清尚工房の隣に)移転した時は「あなたが居たから僕らも読谷に来ることができた」(「あんたがいるからここにするさー」)と国吉に謝意を述べている。
国吉は骨董や古い陶器の欠片にも尋常ではない情熱を傾け、気に入ったモノは枕元に置き、目覚めては眺め、磨いては眺めを繰り返した。
制作の時は、大作でもひと息で作り上げるような勢いであった。
國吉清尚は壺屋焼の窯元・仁王窯で修業を積み、その後、神崎正樹の元で学び、沖縄に戻ってからは読谷村を拠点に作陶を続けた。
沖縄の土味を生かした焼き締めの作品を中心に、伝統に学びながら独自の作風を築き上げ ……
國吉清尚さんが亡くなってから、25年と196日が経ちました。(9327日)