高島野十郎(たかしまやじゅうろう)
画家[日本]
1975年 9月17日 死去心不全享年86歳
髙島 野十郎(たかしま やじゅうろう、1890年(明治23年)8月6日 - 1975年(昭和50年)9月17日)は、大正 - 昭和時代の画家。
本名は彌壽(やじゅ)、字は光雄。
東京帝国大学水産学科を首席卒業した後に独学で絵の道に入り、画壇との付き合いを避け、独身を貫いた。
透徹した精神性でひたすら写実を追求し、隠者のような孤高の人生を送った。
生前はほぼ無名だったが、1986年に福岡県立美術館が初の回顧展が開かれ、再評価が進んだ。
経歴=
福岡県御井郡合川村足穂(現・久留米市合川町)の醸造家である髙島善蔵・カツの六男二女の五男として生まれた。
足穂尋常小学校、御井高等小学校を経て県立明善中学(27期生)に進む。
長兄で詩人の宇朗が15期生、その無二の親友で画家の青木繁が19期生にいた。
中学卒業後、東京美術学校進学を希望するも、家業を継がず詩作と禅修行に没頭した宇朗に懲りて父親に許されず、野十郎は地元第五高等学校(熊本市)を敬遠し、前年開校したばかりの第八高等学校(愛知県名古屋市)に進学した。
初代校長はのちに文部省視学官、東京音楽学校長、女子学院院長等を歴任する大島義脩(当時38歳)であった。
野十郎は第二乙類を選択、同校には動植物担当教授で“ハス博士”の大賀一郎がいた。
1年のとき父善蔵が病死した。
卒業後は東京帝国大学農学部水産学科(4期生)進学が決まっていた。
『傷を負った自画像』は同大時代の作品とみられる。
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高島野十郎が亡くなってから、49年と66日が経過しました。(17963日)