高取稚成(たかとりわかなり)
日本画家[日本]
1935年 1月30日 死去享年69歳
慶應3年5月19日、佐賀県神崎郡松熊村生まれ。名は、熊夫。幼名・熊若。幼時住吉広賢の隣家に住した関係から其の門に入つて大和絵を修め、明治16年広賢の没するや山名貫義に就いた。明治18年より同21年に亙つて行はれた皇居御造営に際して奉仕したが、当時青年輩は何れも諸調度品の下絵をつけるに止つたのであるから今日此等のものは熊若の作品としては現存してゐない。この御造営以後青年画家の中に確たる地歩を占めるに至り、その後青年絵画協会或は日本美術協会、文展等にその作品を発表した。文展に於ては第3回に「赫耶姫天上の図」を、第6回に「藤房卿の草子」(2等賞)を第7回第一科に「南淵魚水」(2等賞)を第9回に「四家文躰」(3等賞)を出品して大正10年より3年間審査員を命ぜられた。其の他世に聞える作品としては宮内省蔵「大正四年御即位大典絵巻」、今神宮徴古館に保管せらるる昭和4年度皇太神宮式年遷宮絵巻12巻、明治神宮絵画館奉献壁画「有栖川征東大将軍宮建礼門御通過の図」等がある。かつては、久迩宮家御用掛たり、現に伊勢神宮技芸員、宮内省嘱託を務めた。最後迄生き残つた純粋な土佐派の画家として、取材なり、技法なり忠実に古法を墨守した其の画風は不幸時世の顧る所とならなかつたが、歴史的には甚だ貴重な存在であった。昭和10年1月30日没。69歳。(参照元・日本美術年鑑 昭和11年版)
高取稚成が亡くなってから、89年と296日が経過しました。(32803日)