織田萬(おだよろず)
法学者[日本]
1945年 5月26日 死去空襲享年78歳
織田 萬(おだ よろず、慶応4年7月4日(1868年8月21日) - 1945年(昭和20年)5月26日)は、日本の法学者。
専門は行政法。
京都帝国大学名誉教授。
常設国際司法裁判所判事。
関西大学学長。
財団法人立命館名誉総長。
佐賀県須古邑生まれ。
経歴=
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幼少時代=
佐賀県須古邑の士族・須古精一の次男として生まれた。
佐賀藩の本流にはなかったものの、須古邑(現・白石町)を支配する須古鍋島家の親族家老・須古西家に属す名士であった。
1歳の時に織田範治の養子として迎えられ、織田家の子供として育てられた。
1879年(明治12年)、須古小学校を卒業した織田は、当時須古邑に安住百太郎が開設した「鶴陰学舎」で漢籍や外国法律書などを学ぶ。
安住は、江藤新平が唐津の士族約120名を率いた「佐賀の乱」に参加した人物で、反乱鎮圧後、岡山県で獄中生活を送っている。
織田は「鶴陰学舎」での経験を通じていち早く「自由民権運動」の気風に触れることができた。
後に須古村に「鶴陰学舎之址」の碑を建立した織田は、自らの号も「鶴陰」とするなど、「鶴陰学舎」に相当の愛着をもっていたことを窺わせる。
青年時代=
1883年(明治16年)、司法省法学校への入学を目指して上京。
翌年秋には定員50名に対して受験者約1,500名という狭き門を突破して同校予科へ進学した。
司法省学校の同期には、後に総理大臣となる若槻禮次郎、後の大臣・小川平吉、荒井賢太郎、常設 ……
織田萬が亡くなってから、79年と179日が経過しました。(29034日)