ラグーザ玉(らぐーざたま)
画家[日本]
1939年 4月6日 死去脳溢血享年79歳

ラグーザ・玉(ラグーザ・たま、1861年7月17日〈文久元年6月10日〉 - 1939年〈昭和14年〉4月6日)は、日本の女性画家。
旧姓清原[1]、幼名多代[2]。
ラグーザお玉とも表記される。
また西洋名はエレオノーラ・ラグーザ(Eleonora Ragusa)[3]。
夫は彫刻家のヴィンチェンツォ・ラグーザ[1]。
なおイタリア語 Ragusa の発音は、シチリア地方では「ラグーサ」となり、本人もそう名乗っていたという。
[4]
略歴=
1861年7月17日(文久元年6月10日)、江戸の芝、新堀の清原生まれ。
旧姓は清原。
父は定吉、母はかね。
姉はお千代[5]。
芝金杉の植木屋の次女で[6]、幼名を多世(たよ)といい、自ら多代とも記した。
若い頃から「エイシュウ」という人に師事したといわれ日本画、西洋画を学んだ。
永寿と号す。
1877年、工部美術学校で教鞭をとっていた彫刻家のヴィンチェンツォ・ラグーザと出会い、西洋画の指導を受けた[2]。
また玉はヴィンチェンツォの作品のモデルも務めた[1]。
金杉小町と呼ばれ、ラグーザからモデルを乞われたのがきっかけとされる[6]。
1880年に20歳上のヴィンチェンツォと結婚。
2年後の1882年に、夫婦でイタリアのパレルモに渡行し、パレルモ大学美術専攻科に入学[1]、サルバトーレ・ロ・フォルテに師事した[2]。
渡伊には玉の兄夫婦も同行した[6]。
1884年には、ヴィンチェンツォがパレルモに工芸学校を開設し、玉は絵画科の教師を務めた[2]。
また画家としても、パレル ……
ラグーザ玉が亡くなってから、86年と87日が経過しました。(31499日)