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クレメンス・フォン・メッテルニヒKlemens Wenzel Lothar Nepomuk von Metternich-Winneburg zu Beilstein

政治家、宰相[オーストリア]

1859年 6月11日 死去享年87歳

クレメンス・フォン・メッテルニヒ - ウィキペディアより引用

クレーメンス・ヴェンツェル・ロータル・ネーポムク・フォン・メッテルニヒ=ヴィネブルク・ツー・バイルシュタイン(Klemens Wenzel Lothar Nepomuk von Metternich-Winneburg zu Beilstein [ˈkleːməns fɔn ˈmɛtɐnɪç]、1773年5月15日 - 1859年6月11日)は、オーストリア帝国及びプロイセン王国の外交官、政治家。
コブレンツ(現:ドイツ・ラインラント=プファルツ州の都市)出身。
オーストリアの外相としてウィーン会議を主宰したほか、のちオーストリア宰相に就任し、ナポレオン戦争後の国際秩序であるウィーン体制を支えた。
生涯= 青年期= ドイツのトリーア選帝侯領の都市コブレンツで、メッテルニヒ伯爵の家に生まれた。
16歳の時にフランスのストラスブール大学(ストラスブール)に入学して外交学などを学んだ。
フランス革命が勃発すると、その革命軍がアルザスやラインラントを占領した。
この経験は、その後激化するナポレオン戦争とあわせ、メッテルニヒのナショナリズムに対する強い警戒心を育むことになった。
1790年、両親の指示で革命騒ぎの残るストラスブールを離れる。
転居先のフランクフルトでは、同年2月に崩御していた皇帝ヨーゼフ2世の後継としてレオポルト2世の戴冠式が行われる予定であり、これに参加するようにとの父の意向であった。
ここでメッテルニヒは17歳にしてカトリック系伯爵団の式部官に任命され、プロテスタント系伯爵団の式部官と2人で、戴冠式を仕切る役に就いた。

クレメンス・フォン・メッテルニヒが亡くなってから、165年と163日が経過しました。(60429日)