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佐野昌綱(さのまさつな)

戦国武将[日本]

(天正2年4月8日没)

(ユリウス暦) 1574年 4月28日 死去享年46歳

佐野昌綱 - ウィキペディアより引用

佐野 昌綱(さの まさつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。
佐野氏の第15代当主。
戦上手であったといわれており、上杉謙信や後北条氏を何度も撃退している。
また、戦で負けて落城したことは無く、戦況を見定め降伏・離反を繰り返して佐野家の命脈を保った。
生涯= 享禄2年(1529年)、佐野氏第13代当主・佐野泰綱の次男として誕生(一説では兄・佐野豊綱の子とも)。
通称は小太郎。
永禄2年(1559年)、14代当主・豊綱が死去すると家督を継ぎ、佐野氏の第15代当主となる。
佐野氏は代々古河公方足利氏に従い、昌綱もはじめは足利晴氏に仕えたが、古河公方の力が衰退し後北条氏の勢力が拡大すると、北条氏康と結んだ。
ところが、越後国の上杉謙信が後北条氏討伐のための関東への侵攻するやこれに呼応し小田原城攻囲に参加した。
これに対し永禄3年(1560年)2月に北条氏政が居城の唐沢山城へ3万余の大軍で攻撃すると昌綱は徹底抗戦し、その後上杉謙信の援軍が間に合い撃退に成功している。
しかし、小田原城攻囲が失敗に終わると程なくして上杉を裏切り、永禄年間には、再び北条(足利義氏)陣営へ寝返った。
その後、永禄年間から元亀年間まで上杉謙信から10度攻められたが、昌綱の優れた戦の才能と、後に関東一の山城といわれる堅城・唐沢山城で防戦し、ほとんど撃退している(唐沢山城の戦い)。
時には謙信に降伏したが、戦後の情勢によって ……

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