田中栄三
映画監督、脚本家、俳優[日本]
1968年 6月13日 死去老衰享年83歳
田中 栄三(たなか えいぞう、1886年11月3日 - 1968年6月13日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優である。
新劇俳優から日活向島撮影所で映画監督となる。
純映画劇運動の旗手として、「革新映画」と呼ばれる『生ける屍』や、『京屋襟店』などの画期的作品を作り、日本映画の芸術的革新者の一人となった。
晩年は後進の指導を行い、俳優として自ら映画にも出演した。
著書も多い。
来歴・人物=
1886年(明治19年)11月3日、東京都日本橋兜町に生まれる。
父親の伝吉は株屋を営んでいたが、3歳の時に父と死別している。
1905年(明治38年)に国民英学会英文科を卒業し、校長の推薦で同校の講師となる。
1908年(明治41年)11月、藤沢浅二郎の主宰する東京俳優養成所(後に東京俳優学校に改称)に第一期生として入所。
同期には上山草人、諸口十九、岩田祐吉がいた。
田中はそこで教授をしていた小山内薫から近代劇のドラマトゥルギーや演技のリアリズムを学び、3年後の1911年(明治44年)6月、同校を卒業。
俳優学校第一回卒業生試演『廃馬』(佐藤紅緑作)に岩田、諸口らとともに出演した。
卒業後は小山内の土曜劇場や新劇場に参加して新劇俳優となるが、上手くいかなかった。
1917年(大正6年)4月、桝本清の勧めで日活向島撮影所に入社。
はじめの7ヶ月間は小口忠監督の助手を務めており、翌1918年(大正7年)1月に監督となり、3月16日公開の『暁』で映画監督デビューした。
当時 ……
田中栄三が亡くなってから、56年と161日が経過しました。(20615日)