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眞板雅文 氏(まいたまさふみ)

彫刻家[日本]

2009年 3月9日 死去心筋梗塞享年64歳

1944(昭和19)年11月11日、中国東北部撫順(旧満州)で生まれる。47年引き揚げ後、神奈川県横須賀で育ち、私立三浦高校在学中、教師の柴田俊一から指導を受け、現代美術に興味を示すようになる。1966年第7回現代日本美術展に出品、同年銀座の村松画廊で初個展(以後同画廊で83年までに5回個展を開催)を行う。初個展の作品は、矩形の支持体に複数の板をレリーフ状に構成したものだった。60年代末からは、海面を撮影した写真と鉛の棒、ガラス、電灯などを組み合わせたインスタレーションの作品を展開するようになる。71年、第6回国際青年美術家展で大賞を受賞、シェルター・ロック財団等の奨学金を得て2年間のフランス滞在を果たす。パリのギャラリー・ランベールで個展を開催するも、肺結核にかかり療養生活を余儀なくされたが、この体験は眞板にとって制作の姿勢を見つめ直す機会ともなった。73年に帰国後、神奈川県二宮町に住む。74年から、紀伊國屋画廊での第2回次元と状況展に参加、このグループ展には10回展まで出品を続ける。76年、第37回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。77年、第10回パリ・青年ビエンナーレに出品。海外への出品、旅行により、各地の風土にふれ、より自然と美術との関わりに思いをめぐらすようになる。80年代に入ると、ロープや布を用い、それを織り込んだ、網状や円のかたちをとる呪術的な趣を醸し出す作品を展開する。国内の画廊での個展や美術館の企画展への出品を重ねる中で、85年、ガストン・バシュラール生誕100年祭企画でのフランス、トロア市での展示、86年、第42回ヴェネツィア・ビエンナーレへの出品は、ひとつの転機となった。作品の巨大化と野外彫刻、公共スペースのモニュメントの仕事が多くなっていく。構造上、作品の素材にはそれまで以上に、石や金属が使用されるようになるが、自然、とくに水へのこだわりは、止むことがなかった。その作風を耕すかのように、神奈川県秦野市(81年から)や長野県富士見町(94年から)の古民家を改造したアトリエで過ごすことも多くなっていく。1994(平成6)年、畏友安齋重男との神奈川県立近代美術館での展覧会「写真と彫刻の対話」では、代表作ともいえる29個の水盤状の立体「永遠の一端」を制作した。95年第7回本郷新賞を受賞。この頃から、竹を逆円錐状に組み上げる巨大な作品をみせるようになる。その環境造形としての試みは、97年下山芸術の森発電所美術館や2003年大原美術館の個展「音・竹水の閑」にみられた。現代美術の領域において、竹、自然石、布、水といった人々に親しめる素材を用い、ダイナミックに時に繊細に表現した作家といえよう。作品集に『眞板雅文1999』(小沢書店、1999年)がある。(引用元・日本美術年鑑 平成22年版)

眞板雅文さんが亡くなってから、15年と257日が経ちました。(5736日)