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伊集院五郎(いじゅういんごろう)

元帥海軍大将、男爵[日本]

(伊集院信管を開発)

1921年 1月13日 死去享年70歳

伊集院五郎 - ウィキペディアより引用

伊集院 五郎(いじゅういん ごろう、1852年11月9日(嘉永5年9月28日) - 1921年(大正10年)1月13日)は、日本の海軍軍人。
元帥海軍大将正二位勲一等功一級男爵。
経歴[編集] 薩摩藩士の子として生まれ、明治10年(1877年)の西南戦争に参戦する。
イギリスの海軍兵学校・海軍大学校で兵学を学んでいたため、日本海軍の中でも博識であった。
海兵5期。
下瀬雅允海軍技師が開発した下瀬火薬の威力を発揮させるため、伊集院信管を開発した。
この信管は明治38年(1905年)の日本海海戦(日露戦争中)で、下瀬火薬とともにその威力を発揮し、連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃破する大きな要因となった。
そのため伊集院は、「日本海海戦勝利の影の功労者」と言われている。
日露戦争後は第二艦隊司令長官、第一艦隊司令長官、海軍軍令部長を歴任した。
第一艦隊司令長官時代に行った猛訓練は「月月火水木金金」といわれ、後に同名の軍歌が作られるに至った。
大正6年(1917年)元帥府に列せられた。
年譜[編集] ※日付は明治5年までは旧暦 嘉永5年(1852年)9月28日 薩摩藩士 伊集院才之丞の長男として生まれる 明治4年(1871年)9月24日 海軍兵学寮幼年学舎入り 明治9年(1876年)9月5日 軍艦「筑波」乗組 明治10年(1877年)11月9日 イギリス留学(深尾弘とともに「学業進歩」により選抜される) 明治12年(1878年)8月16日 英戦艦「トライアンフ」 (Triumph) 乗組 明治13年(1880年)10月4日 「トライア ……

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伊集院五郎が亡くなってから、103年と195日が経過しました。(37816日)