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下瀬雅允(しもせまさちか)

海軍技師、工学博士[日本]

(「下瀬火薬」を開発)

1911年 9月6日 死去享年52歳

下瀬雅允 - ウィキペディアより引用

下瀬 雅允(しもせ まさちか、安政6年12月16日〈1860年1月8日〉 - 明治44年〈1911年〉9月6日)は、日本の海軍技師(海軍高等文官、高等官二等〈少将相当〉)。
従四位勲二等工学博士。
下瀬火薬の発明による日露戦争への貢献で知られる。
帝国学士院会員。
帝国学士院賞受賞。
広島県出身。
生涯= 1859年(安政6年)12月16日、広島藩士鉄砲役、下瀬徳之助の長男として広島市鉄砲町(現中区鉄砲町)に生まれる。
1884年(明治17年)、広島英語学校(広島一中の前身、現・広島県立広島国泰寺高等学校)を経て、帝国大学工科大学応用化学科(東大工学部)卒業。
内閣印刷局に就職。
鎬青(こうせい、光の青染料)及び版面洗浄液の改良、紙幣の真贋識別に有効な黒色インキ他を発明。
1887年(明治20年)、海軍技手となり赤羽火薬製造所で火薬研究に専念。
爆発事故で左手を火傷、手指屈伸の自由を失うも屈せず。
1893年(明治26年)、下瀬火薬を完成。
海軍技師に昇任、火薬製造所長。
1899年 (明治32年)、工学博士の学位を受け、帝国学士院賞を授与された。
日露戦争の各海戦及び旅順砲撃で下瀬火薬の威力は遺憾なく発揮され、戦勝に大きく貢献し、当時世界的な反響を呼んだ。
1906年(明治39年)、その功により勲三等に叙せられた。
以来、下瀬火薬の製法は極秘とされているが、その実体はフェノールをニトロ化して作るピクリン酸であった。
1908年(明治41年)2月26日、帝国学士 ……

下瀬雅允が亡くなってから、113年と77日が経過しました。(41350日)

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