小野忠明(おのただあき)
剣豪、将軍家指南役[日本]
(別名・神子上典膳、寛永5年11月7日没)
1628年 12月2日 死去

小野 忠明(おの ただあき、永禄8年〈1565年〉? - 寛永5年11月7日〈1628年12月2日〉)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、剣豪、旗本。
伊東一刀斎の高弟として一刀流を継承し、徳川将軍家剣術指南役となった。
前名は神子上 典膳(みこがみ てんぜん)[注釈 1]で、のちに母方の小野姓を名乗った。
通称は次郎右衛門、前名は吉明[3]。
子に忠常。
伊藤忠也は弟とも子とも。
弟子に忠常(小野派一刀流)、伊藤忠也(忠也派一刀流)、小幡景憲など[3]。
経歴=
小野忠明・小野忠常の墓
永禄8年(1565年)[3][注釈 2]安房国朝夷郡丸村神子上(現・千葉県南房総市御子神)[注釈 3]に生まれる[5]。
『武芸小伝』は勢州の出、『増補英雄美談』は信州人とするがこれらは正しくない[1][2]。
先祖は大和国の十市兵部大輔遠忠であるという[6][3][2]。
その子孫が上総国に移り里見氏に仕える郷士となった[7][3][2]。
曽祖父の神子上大蔵は里見十人衆頭600石[1][7][2]。
祖父の神子上庄蔵は100石で天文3年(1535年)の犬掛合戦で木曽新吾と相打ちで死亡[7](『房総里見軍記』『里見九代記』)[1][8]。
父は神子上重(しげ、通称・土佐)、母は小野氏[1][7][4]。
天正17年(1589年)11月、里見義康の家来として万喜城攻撃に参加。
正木時堯(正木大膳)と一騎討ちをしたが決しなかったという[9](『 里見代々記』『房総里見軍記』)[1]。
伊東一刀斎に弟子入りする前は三神流の使い手であったとされるが、三神 ……
小野忠明が亡くなってから、396年と209日が経過しました。(144848日)