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里見義康(さとみよしやす)

戦国大名、安房館山藩初代藩主[日本]

(慶長8年11月16日没)

1603年 12月18日 死去享年31歳

里見 義康(さとみ よしやす)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。
里見義頼の長男。
安房国館山藩の初代藩主。
生涯[編集] 織豊時代[編集] 天正元年(1573年)、安房国の大名・里見義頼の長男として誕生。
幼名は千寿丸。
天正15年(1587年)、父・義頼の死により15歳で家督を相続して、左馬頭、左衛門督等の官途を称した。天正16年(1588年)11月に父に引き続いて、増田長盛の取次のもとで豊臣秀吉に音信を通じ、安房国・上総国両国および下総国の一部を安堵された。
天正18年(1590年)の小田原征伐で秀吉の怒りに触れた結果、上総・下総の所領を没収され、安房4万石(差出検地による石高)に減封された。
原因については従来は遅参とされていた。
しかし、近年では里見氏が庇護していた小弓公方・足利義明の遺児頼淳を擁して、北条氏によって奪われた旧領回復の好機とし、三浦へ渡海進軍し、鎌倉公方家再興を標榜し独自の禁制を発したことが、私戦を禁じた惣無事令違反に問われたと考えられている。
なお、この件を仲介したのが徳川家康であり、これ以降、里見氏は徳川氏に接近する。
徳川家康は義康に里見家と徳川家は新田氏を祖とする同族であり親戚だと思っているといった内容「殊一性之儀二候間」の起請文を送っているが、この古文書は滝川恒昭により偽文書の可能性が指摘されている。
その後に上洛し、従四位下に叙せられ、侍従、安房守に任ぜられた。
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里見義康が亡くなってから、420年と219日が経過しました。(153624日)