石崎光瑤(いしざきこうよう)
日本画家[日本]
1947年 3月25日 死去享年64歳
石崎 光瑤(いしざき こうよう、明治17年(1884年)4月11日 - 昭和22年(1947年)3月25日)は、日本の大正時代から昭和の初めにかけて活躍した日本画家。
文展・帝展を中心に活動し、写実に基づく鮮やかで装飾的な花鳥画を得意とした。
略伝=
富山県西礪波郡福光町(現在の南砺市)で、素封家・石崎和善の五男として生まれる。
本名は石崎猪四一。
石崎家は和泉屋の屋号で本業は麻布業だったが、江戸時代から蔵宿業を営み、町役人も務めた豪商だった。
幼少より画才があり、明治29年(1896年)12歳頃東京から金沢に移り住んだ琳派の絵師・山本光一に師事する。
光瑤の「光」は師から貰っており、この頃の光瑤は福光や金沢近郊を写生して廻ったという。
これに飽き足らなくなると、師の薦めもあって同36年(1903年)19歳で京都の竹内栖鳳の門に入る。
新古美術品展で受賞を重ねるなか、明治42年(1909年)吉田孫四郎、河合良成、野村義重ら4人と、ガイド宇治長次郎らの案内で、民間人としては初めて剱岳登頂に成功する(初登頂は柴崎芳太郎)。
大正元年(1912年)第6回文展に《薫園》が初入選、以後文展・帝展に出品を続ける。
大正5年(1916年)から翌年にかけてインドを旅行。
ヒマラヤ山脈登った後、アジャンター石窟群やエローラ石窟群などの古蹟を巡る。
帰国後に第12回文展に出品した《熱国妍春》と、翌年第1回帝展の《燦雨》が特選となり、無監査となる。
大正11(1922年)11月から ……
石崎光瑤が亡くなってから、77年と242日が経過しました。(28366日)