永島勝司 氏(ながしまかつじ)
プロレス評論家[日本]
2025年 2月10日 死去呼吸不全享年83歳
永島 勝司(ながしま かつじ、1943年1月6日 - 2025年2月10日)は、日本の元新聞記者。
島根県出身。
東京スポーツで整理部長、新日本プロレスで取締役、WJプロレスで専務取締役を務めた。
来歴=
専修大学卒業後、毎夕新聞社を経て東京スポーツ新聞社に入社。
東スポ在籍時からガッツ石松対藤原敏男の実現に向けて暗躍するなど、後の「仕掛け人」としての片鱗を見せていた。
その後新日本プロレス担当記者となり、その後の盟友でかつ専修大学では後輩にあたる長州力と懇意になる。
1984年9月20日に開催された新日本プロレス大阪府立体育会館大会の取材の翌日に、乗車していた東海道新幹線の列車電話で東スポからジャパンプロレスの設立を知らされ、会社の指示で東スポ本社へ向かい、直後にジャパンプロレス設立会見へ向かった。
永島の長州に対する質問において、長州は「先輩、すいません」と開口一番で発言した。
その際、永島の落胆ぶりは大きかったという。
1988年、新日本プロレスに入社。
渉外担当・企画宣伝部長としてUWFインターナショナルとの対抗戦などヒット企画を生み、「平成のプロレス仕掛人」あるいは「背広レスラー」の異名を取るに至る。
取締役時代には長州(当時の役職は現場監督)と共に新日本プロレスにおいて大きな発言力を誇った。
しかし新日本プロレス内での派閥抗争に破れ、2002年に新日本プロレスを退団した。
退団後、他団体のアングルを企画する ……
永島勝司さんが亡くなってから、49日が経ちました。